日立の実業団に入ってからの生活は「24時間ソフトボール」。白戸選手が在籍していた80年代終わりから1990年にかけて、日立のソフトボール部は日本リーグ3部から2部へ、2部から1部へ昇格。ユニフォームの色から「白い旋風」と名付けられるほど、チームが急成長の勢いに乗っていた時期だったこともあり、「休みがないのが当たり前」だった。
「実業団っていうのは午前中8時に出社。お昼までは会社のお手伝いをして、1時から8時くらいまで練習。で、ご飯食べてという感じだから。あと個人練習として、中庭でバッティングする人もいたし、素振りやるとか…」
遊びたい欲求を抱く暇もなく、ストイックに練習に取り組むこと自体は、高校時代に経験がなかったわけではない。しかし、全国から集まった選りすぐりの選手たちと寝食を共にしながらトレーニングに励む中で、これまでにないレベルの差やギャップを感じざるを得なかった。
「田舎のほんわかしたところとちがって、やっぱりみんなライバルですよね、それぞれ。先輩後輩の厳しさだったり、上下関係だったりというものは、カルチャーショックじゃないけど、ありましたね。で、[寮の]お部屋も2人部屋で先輩と組まされる。だから休まらないね(笑)でも私だけじゃないから、みんなそうだから」
ボールも慣れ親しんだものではなかった。
「もうね、ボールもちがうんですよ。高校のときまでは、反発力のあるゴム。それが硬式になるわけです。固い、重たい皮のボールになるんですよ、弾力性のない。そういうものにも慣れなきゃいけない」
新しい環境で、練習についていくことから始まった実業団チームでのソフトボール。みんなで力を合わせて、昇格がかかった大事な試合に勝利するときは楽しい。だが、レギュラーから外れ、ベンチからチームをサポートする白戸選手の中には、消化しきれない思いが募ってゆく。
「何だろうな、ソフトボールが好きとかっていうんじゃなくて、自発的じゃなくなってた。決められたメニューをこなすのに精一杯で… そのとき、そのときは、必死にやってるんだろうけど、入ったときから2年でやめようと思っていた自分もいたりして。慣れないし、無理って。頑張っても限界があるとか、なんかそうやってラインを決めていたかもしれないですね」
選手としての限界を自ら感じていた白戸選手。2年目のシーズンを終えての監督との面接で、ひとつの結論を出すことに。
「監督から『お前、マネージャーやらないか』って言われたってことは、『あ、私は選手としては役に立てないんだ』と。で、監督の下でサポートしていくっていうのは私じゃない、できない、と思って『辞めます』って」
そして、チームを離れる意志を固めた白戸選手に、考えもしなかった大きな転機が訪れる。
(続く)
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