優れた映画は時として、現実世界の事象とシンクロしてしまうことがある。2003年に勃発したイラク戦争に4回出征したアメリカ海軍特殊部隊NAVY SEALsの隊員、クリス・カイルの自伝を映画化した『アメリカン・スナイパー』。はからずも世界各国で反イスラムの動きが加速する中、「目には目を」の報復主義を口にする米海軍特殊部隊が登場する本作は、1月中旬から全米拡大公開され、監督クリント・イーストウッドのキャリアにおける最大のヒット作と同時に大きな論争を呼ぶ作品となった。米軍史上最多160人の命を奪ったスナイパー、クリス・カイルは“レジェンド”のニックネーム通りヒーローなのか、戦争のマシンと化した人殺しなのか?作品自体からイラク戦争に対する政治的なメッセージは読み取れない。が、少なくとも本作において、イーストウッドはカイルを単純明快な英雄として礼賛しない。全編を通じて子供と女性の存在が、カイルの中で絶えざる葛藤と苦悩を生み、彼の心は蝕まれてゆく。
「羊」と「狼」、「牧羊犬」の使命
作品のオープニング、戦場のカイルは米軍の戦車の前に立ちはだかる女性と幼い子供に照準を合わせる。武装していない一般市民か、味方の命を奪う相手か。一瞬の判断の狂いが致命的な過失につながる。ただならぬ緊張感が冒頭から導入されるのに続いて、主人公の子供時代のエピソードが紹介される。世界は「羊」と悪の「狼」、そして無力な羊を守る役目を担った「牧羊犬」の3種類の人間からなると息子たちに説明するカイルの父親(厳格なテキサスの家族の食卓の場面は、見る者の身じろぎさえ禁じかねない雰囲気をたたえている)。父の教えが実際にどれほどカイルの入隊に影響力を与えたのか、正確な判断は困難だが、息子は「牧羊犬」の使命に生きることになる。「国のため」「神のため」といった触知不可能な、個人のレベルを超えた対象、大義のために殺戮や残虐行為を正当化することによって、人類は愚かな歴史を繰り返してきた。本作において、主人公があからさまに大義を振りかざすことは慎まれている。大義は個々の登場人物に「落とし込まれ」、空虚なスローガンが連呼されることはない。カイルが対峙するのは顔の見えないイスラム武装勢力ではなく、敵の名スナイパーであり、二人の狙撃手のせめぎあいは作品のクライマックスにもなっている。またシール・チームの戦友たち、その生死が、カイルを戦闘に向かわせる直接的なモチベーションとして描かれている。
帰れない心
戦地で使命を果たす「牧羊犬」は家に帰ることができなくなる。体は祖国アメリカに移動しても、家族が待つ場所にまっすぐ帰ることができない。帰宅しても、「心ここにあらず」のカイルに対し、妻タヤは“I need you here.”と懇願する。娘が誕生した際、病院を訪れたカイルのリアクションも痛切に心に残る。新生児室のベッドに寝かされている自分の子供が泣き出しているにも関わらず、看護師が他の赤ん坊をかまっているのを見たカイルは、ガラス越しに声を上げて、乱暴に注意を引きつけようとする。命を奪うことはいかなるミッションであっても正義に還元され、正当化しきれるものではなく、人の心に深い爪痕を残す。帰還兵のPTSDを扱った作品は他にも存在するが、過剰にドラマティックに描写することなく、「牧羊犬」の魂の彷徨に寄り添う本作のアプローチは、フィクションのパートと実在のクリス・カイルの記録映像を静かにつないだラストにいたるまで、一種の倫理的な選択の結果であるように思う。
戦争映画史上、最も視界が混濁したシーンとして記憶されるであろう大砂嵐の場面、戦闘のアクションが終わったあと、喪の儀式のように砂に埋まったシルエットを映し出す移動ショット。あるいは銃弾に倒れることになる隊員とカイルがかわす一見何気ない会話。ディテールへの目配せ、編集の微妙な編集のタイミングなどが、容易には共有できない非日常の極限状態の核心へ見る者を誘う。「木を見て森を見ず」では決してない。本質に通じる細部が無駄を排した作品構成・展開の中で忘れ難いモーメントをなすフィルムでもある。
『アメリカン・スナイパー』AMERICAN SNIPER
大ヒット上映中!
オフィシャルサイト:http://www.americansniper.jp
配給:ワーナー・ブラザース映画
アメリカ/2014年/132分/スコープサイズ
【キャスト】
ブラッドリー・クーパー(クリス・カイル)
シエナ・ミラー(タヤ・カイル)
ルーク・グライムス(マーク・リー)
ジェイク・マクドーマン(ビグルス)
ケビン・ラーチ(ドーバー)
コリー・ハードリクト("D"/ダンドリッジ)
ナビド・ネガーバン(アル=オボーディ師)
キーア・オドネル(ジェフ・カイル)
【スタッフ】
監督・製作:クリント・イーストウッド
製作:ロバート・ロレンツ、アンドリュー・ラザー、ブラッドリー・クーパー、ピーター・モーガン
脚本・製作総指揮:ジェイソン・ホール
原作:クリス・カイル、スコット・マクイーウェン、ジム・デフェリス
製作総指揮:ティム・ムーア、シェロウム・キム、ブルース・バーマン
撮影:トム・スターン
美術:ジェイムズ・J・ムラカミ、シャーリーズ・カーデナス
編集:ゲイリー・D・ローチ
衣装:デボラ・ホッパー
海事技術顧問:ケビン・ラーチ