侯孝賢による現代映画の至宝
これぞ感性の至福。そういっても過言ではない。『ホウ・シャオシェンのレッドバールン』(2007)から8年ぶりとなる侯孝賢の最新作『黒衣の刺客』は、5年の歳月をかけて撮影された、ジャンルとしては意表をつく武侠映画。しかし、ワイヤーで吊られた俳優によるアクション満載のフィルムではなく、「静」の力強さ、静謐な気高さと美しさを最大限に引き立てるミニマムな「動」のエレメントが配されている。
唐の時代の中国。幼い頃に姿をくらました隠娘(スー・チー)が、家族のもとに帰ってくる。女道士の下で有能な暗殺者として仕立てられた隠娘の新たな標的は、王朝の力を脅かす駐屯兵、魏博の田李安(チャン・チェン)。隠娘にとって李安は、幼なじみの許嫁だった。冷徹な刺客であるはずの隠娘も、なかなか使命をまっとうできない…… 登場人物の複雑な相関関係やストーリーの細部は気にならないほど、スクリーン上の世界に引き込まれる。録音技師のドゥー・ドゥージと撮影のリー・ピンビンという、侯孝賢作品に欠かせない音と映像の名匠が、古典絵画のような壮大さをたたえた大自然と精緻に作り込まれた室内のセットにおける事物と人々の存在にヴィヴィッドに息を吹き込む。隠娘が忍び込んだ館で、シースルーの布の重なりの影に姿を潜めているようなカメラと登場人物の見事な共犯関係は、物理的な「尺」の感覚を忘れて魅了される映画的時間の持続を実現する。李安をめぐる女性たちの静かなる戦いは、『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(2005)の密室劇の濃密さを想起させ、さらなる耽美と優美を極める。『百年恋歌』で時を越えたベストカップルを演じたスー・チーとチャン・チェンの演技は、本作では一層凄みを増し、クローズアップにまったく依存することなく、情動のうねりを一挙手一投足に込めてみせる。
サイレント映画の豊かさを手にした現代映画
音を獲得した映画は果たしてそれだけ豊かさを増したのか、という疑問は、ジャン=リュック・ゴダールの『映画史』でも批判的に検証されるが、『黒衣の刺客』はその稀有な反証例にあげられるだろう。サウンドの緻密な演出が行われながら、ダイアローグの不在によって際立つ俳優たちの存在の「雄弁さ」、映画的表現の豊穣さを獲得している。さらに、ロウソクの光をはじめ、さまざまな光源を駆使した演出には、映画の父、リュミエール兄弟がフランス語の「光」をファミリーネームに持つという始原的な偶然にまで思いを馳せたくなる。本作で展開される一切の妥協を拒む光と影、音と沈黙の駆け引きは、剣よりもドラマティックに、容赦なく見る者の心を奪う。
『黒衣の刺客』
第68回カンヌ国際映画祭<監督賞>受賞
原題 : 刺客 聶隱娘|英語タイトル : THE ASSASSIN
新宿ピカデリーほか、全国公開中
公式サイト : http://kokui-movie.com
2015年/台湾・中国・香港・フランス/108分/スタンダード一部ビスタ/5.1ch
【キャスト】
スー・チー(聶隠娘)
チャン・チェン(田李安)
妻夫木聡(鏡磨きの青年)
忽那汐里(鏡磨きの青年の妻)
許芳宜(嘉誠公主/嘉信)
【スタッフ】
監督:侯孝賢
エグゼクティブ・プロデューサー:侯孝賢、リャオ・チンソン
共同プロデューサー:レン・ユェ、スティーブン・シン
撮影:リー・ピンビン
編集:リャオ・チンソン
美術:ホアン・ウェンイン
録音:ドゥー・ドゥージ、ウー・シューヤォ
脚本:チョン・アーチョン、チュー・ティエンウェン、シェ・ハイモン
音楽:リン・チャン
原作:「聶隱娘」、ハイ・ケイ
配給:松竹(株)メディア事業部