遠藤周作による原作との出会いから28年。マーティン・スコセッシ自身の信念の挑戦でもあっただろう『沈黙 ―サイレンス―』が公開される。信仰とは何か?善と悪を分けるのは何なのか?神は存在するのか?生きとし生けるものにかかわる根源的な問いと向き合った遠藤周作の作品を、脚本にするまでに何年もかかったフィルムは、数百ワードの「感想文」に換言されることを拒む。「普遍的な」作品とは、絶対的な真実を謳うものではなく、その作品を受け取る者に、開かれた問いの契機を与えるものなのだろう。実際、本作は信仰の名の下、大義を掲げた殺戮や暴力が起こり、さまざまな形の不寛容さに対し、inclusiveな社会の実現が希求される世界に生きる人々を、不意打ちするようなアクチュアリティーを持ち、自らの中にわき起こる問いかけへと誘う。
幕府による激しいキリシタンの弾圧下にある17世紀の長崎は、現代の台湾を理想のロケーションとして見いだした。冒頭、十字架にかけられて命を落とす日本の信者たちを前に、崩れ落ちる宣教師フェレイラ(リーアム・ニーソン)。棄教したとされるフェレイラの行方を追って、弟子のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライヴァー)は、マカオから長崎へと入るが、情熱に燃える若き神父たちを待ち構えていたのは、壮大な試練が具現化された世界だった。灰色の空と岩、砂浜、風雨にさらされた集落。墨絵のように広がる風景を、無情に染める海の碧。虫の声や風の音など、全編を通じて、呼びかけても答えのない「沈黙」を意識したサウンドデザインが非常に効果的に機能している。
絶対的な悪者や、絶対的な善者の存在を前提とするなら、『沈黙 ―サイレンス―』は成立しない。だからこそ、登場人物たちの振る舞いや言葉は、判断する者が立脚する視点によって、真実でも偽りでもありえる。「転んだ」宣教師を追う主人公たちの熱演はもちろんだが、隠れキリシタンのひとり、モキチに扮する塚本晋也、「裏切り者」の苦悩を体現する窪塚洋介、彼らを迫害する権力の側にある浅野忠信、井上筑後守役のイッセー尾形らの演技は、本作が映画化された意義を担っているといっても過言ではない(アレクサンドル・ソクーロフの『太陽』では、昭和天皇を演じきったイッセー尾形。本作で、彼が単なる「悪代官」になってしまっていたら、作品全体に与えるダメージはかなりのものになっていただろう)。
本作の「サイレンス」には、なぜこれほどの苦しみを弱き者、信じる者たちに与えるのか、という絶えざる呼びかけに対する、神の声が不在が含まれる。さらに、このフィルムにもうひとつの「サイレンス」があるとすれば、それはフェレイラの変容を目の当たりにした後のロドリゴの「沈黙」だろう。ロドリゴと同時代の日本で、その意思が代弁されることはなく、消えて行った者たちの声なき声も想起される。前者の「サイレンス」をいかに引き受けるかは、厳密な意味での信仰者により深く関わるのなら、後者の「沈黙」は私たちの中にも広く問いを投げかけるものではないだろうか。「魂を歪められる」ことは、フィカルな拷問よりもつらい。そう信じていたロドリゴが、魂の「歪曲」の果てにたどり着いた沈黙は、見る者の深奥に響いてくる。
『沈黙-サイレンス-』Silence
絶賛上映中
配給:KADOKAWA
公式サイト http://chinmoku.jp
【キャスト】
アンドリュー・ガーフィールド(ロドリゴ神父)
リーアム・ニーソン(フェレイラ)
アダム・ドライヴァー(ガルペ)
浅野忠信 (通辞)
窪塚洋介 (キチジロー)
イッセー尾形 (井上筑後守)
塚本晋也 (モキチ)
小松菜奈 (モニカ)
加瀬亮 (ジュアン)
笈田ヨシ(イチゾウ)
【スタッフ】
監督:マーティン・スコセッシ
脚本:ジェイ・コックス、マーティン・スコセッシ
撮影:ロドリゴ・プリエト
編集:セルマ・スクーンメイカー
美術:ダンテ・フェレッティ
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